環境は自分たちが作るもの
ぼくは「がん」になり、様々な活動をするようになりました。
その中で、大きな柱のひとつに、がんに対する社会の理解を広げるための活動があります。これは、がんに対する誤解や偏見が、社会の中にはまだまだ大きくあり、それを「がんを知る」ことで、少しずつ減らしていきたいというものです。
そのほかに、キャンサーペアレンツの運営、ビジネス化に向けた活動、会社員としての役割などがあります。
がんになっても生きていきやすい社会を作りたい。こどもの世代にまで、今と同じように、カミングアウトしにくい環境じゃないほうがいい、息をひそめて生きていくような環境じゃないほうがいい。そう思っています。
ぼくは、当事者として、様々な「声」を発信したいと思っていますが、そのなかで、気づいたことがあります。それは、今の環境を作っているのは、そもそもその当事者なんではないかということです。
どういうことかと言うと、「がん患者が生きやすい社会を」と訴えている、がん患者自身が、「がん患者が生きにくい社会」にしている、のではないかということです。
たとえば、
目を向けて欲しいから、多少オーバーに話をする。
特別なものとして見られたい。
当然のように権利を主張する。
かくあるべきという主張が強い。
などなど。
もちろん、社会のムーブメントをつくるために、オーバーにとか、特別だとか、あるべき論を用いることもあります。ぼくももちろんそうです。
かたや、それが逆に、相容れないものとして見られることにもつながる。
盛らないと見てもらえない。盛りすぎると胡散臭い。近づきにくい。うざい。
これまで、がんに限らず、さまざまな分野で同じような議論があったと思うし、今もあると思う。解決が難しい問題でもある。
ぼくができるのは、ありのままで、当事者の想いを忘れず、楽しく生きること。
社会を変えたいと大きなことを言ってますが、その一歩は、ぼくの周囲の人に、僕の生き様を見てもらって、「がんになってもイキイキ生きていけるんだ」ということです。それがなければ、その次のステップには進んでいけません。
だからこそ、私は会社で働き続けるし、事業(ビジネス)にしたいし、常にオープンでありたい。ありたい環境とは異なる環境を、自らで作っているかもしれないという意識を常に持ちながら、そうならないように、様々な工夫をしながら。
そしていつか、「がんになっても生きていきやすい社会」になり、その小さな一歩に、ぼくの一歩の足跡があればいいなと思う。
とりとめもない内容になってしまった・・・。すいません。
ぼうず、めがね、がんばります。(むすめ作)